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黒田官兵衛~作家・童門冬二氏インタビュー~

異色の戦国武将

 豊臣秀吉の参謀役として重用され、後に福岡藩52万石の祖となった戦国武将・黒田官兵衛。2014年にはNHK大河ドラマの主人公に据えられ、改めて注目が集まっている。

 作家の童門冬二氏は13年11月、「黒田官兵衛―「知」と「情」の軍師」(時事通信社)を上梓し、主君のもとで戦略を練る「軍師」の立場から、一国一城の主(あるじ)へと成長していった官兵衛の生涯を描いた。殺伐とした戦国時代を生き抜きながら、人情に厚く「人を殺すのが嫌い」という異色の戦国武将だった官兵衛の人柄や事績について、童門氏の話を聞いた。

 黒田官兵衛は1546(天文15)年、播磨国姫路(現・兵庫県姫路市)で生まれた。父親は、播磨の武将・小寺氏の家老を務めていた黒田職隆(もとたか)。官兵衛の幼名は万吉、諱(いみな)は初め祐隆(すけたか)、後に孝高(よしたか)と改める。隠居後は如水と号したため、「黒田如水」という名でも知られている。

 ―黒田官兵衛と言えば、豊臣秀吉を支えた「軍師」で、自身も天下を取る野望があったとも言われています。冷酷な武将といったイメージも浮かびますが、実際にはどうだったのでしょう。

 童門:黒田官兵衛の逸話集が死後に編さんされていて、エピソードはいろいろ伝わっています。それを読む限り、「冷酷」とか「野望を秘めた」といった感じはしません。むしろ、人情家で律義な男だったというイメージですね。

 ―どんなエピソードから、そう感じられたのでしょう。

 童門:例えば、息子に家督を譲った後の晩年のことですが、幼い子どもたちにとても好かれたという話があります。子どもというのは、本能的に人柄を見抜きますから、官兵衛が根っからの善人でなければ、そういう逸話は残らないと思います。

 ―人を殺すのが嫌いだったようですね。

 童門:この時代、戦国武将の家臣は軽い罪で首をはねられることも多かった。でも、官兵衛は殺さずに生かして使ったという話も残っています。

智謀の将か、誠実の人か―
戦国乱世、異彩を放ち続けた天才軍師・黒田官兵衛の知られざる素顔に迫る!
黒田官兵衛―知と情の軍師

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